セザンヌとピカソを殺した男、マレーヴィチ。

ムンクの叫びが90億円なら、もし売りに出されたら軽く100億円を超えるであろう20世紀の至高の名画がある。それは「Black Square」(白地の上の黒い正方形)と呼ばれるたった1メートル四方の抽象絵画だ。この絵を描いたのは20世紀初頭、革命のロシアで波乱の人生を芸術にささげた男、そしてソビエト共産主義によって長い間世界の美術史から封印されてきた男、カジミール・マレーヴィチ、その人である。

なぜ、単に白地に黒の正方形を描いた絵画に今そんな大きな価値があるのか。それはこの絵が現在に至るまでの抽象絵画の歴史、いや絵画芸術そのもの歴史を決定付けた革命的な絵画だからだ。同時代、マルセル・デュシャンが市販の便器にサインを入れる「レディメイド」というアイディアで芸術そのもの捉え方を変えたとすると、マレーヴィチは間違いなく「Black Square」で有史以来の絵画の概念を変えてしまった。それはまさに20世紀の芸術神話なのだ。

抽象絵画の世界は難解だ。作家の頭の中のイメージや偶然性を描きだしたものだから当然だ。日常の世界で脳が認識している対象物が絵画の中にないと人間は混乱する。けれどもこのマレーヴィチはあえてこの対象物を絵画が消そうとした。なぜそんなことを考えたのか。彼は「絵画は誕生して以来、対象物に縛られることで不自由さを余儀なくされている」と考えたのだ。対象物を排除する。つまり無対象の世界を描くこと。この考えをマレーヴィチは「スプレマチズム」と名づけた。

レンブラントルーベンスなどの古典絵画は対象物(人物や風景)をいかに正確に描くかという発想のもとに作家の情感をその絵の上に表現した。ところが19世紀の印象派の画家たちは、対象物を正確に描くことから脱却し、光やイメージといった自分の情感を重視するようになった。
そして、さらにその流れは加速し、セザンヌは対象物の情感を質量として描きはじめた。ピカソキュビスムに至ってはさらに対象物から離れ、作家の直感がキャンバスに展開されるようなる。これがマレーヴィチの考える絵画の進化論だ。
そして彼は、こうした歴史を正確に分析するとともに、当時科学技術の進歩がその後の芸術に与える影響まで検討を重ね、ついには「スプレマチズム」つまり無対象の世界が絵画芸術の究極のあり方であるというところに行き着く。つまり、セザンヌピカソがどんなに対象を軽視しても、その作品の中には何を描いたかという残存物がある。それではまだ絵画的な世界は完成に至っていないし、対象物に縛られている限りは、時代の流れ(科学技術の進歩や宗教あるいは政治)に翻弄され、真に絵画そのものの独立はない。だから対象性を排除するのだ。「無対象」が必要なのだ。作家の持つ直感だけを絵にして、対象物は描かない。
そして研究の結果、生まれたのが「Black Square」だ。(マレーヴィチはこの発想にたどり着いたとき、自分自身でもそれまでの絵画の全否定に恐怖におののいたと記している)

歴史に「if」はないが、もしスターリン全体主義がなければ、もし第2次世界対戦がなければ、マレーヴィチの「スプレマチズム」が絵画論のセンターになっていたかもしれない。なぜならその後、20世紀後半にブルトングリーンバーグが絵画の平面性の問題や写実を超える世界を説いても、それはマレーヴィチのたどり着いた概念の延長線上でしかないからだ。

20世紀初頭、マレーヴィチは写真や映画という新しい表現技術がめまぐるしく進化する中で、本気で絵画の平面がもついわゆる絵画性について考えに考え抜いたのである。けれども、ふと疑問がよぎる。「なぜ、そんなことが芸術の都パリではなくロシアというヨーロッパの偏狭の地で行われたのか?」今でこそ抽象絵画は一般的だが、当時はマチスですら野獣派と批判され、キュビスムに至っては絵画の扱いを受けなかったそんな時代である。「そんな中で「無対象」なんていう突拍子もない発想がなぜ生まれたのか?」

20世紀初頭、ロシアは特別な存在だった。ひとつは「マチス、復活のとき」でも紹介したロシアの大富豪シチューキンなど先見的なコレクターがいたことだ。つまり、マレーヴィチをはじめとするその後1930年代まで活躍するロシア・アバンギャルドの作家たちは、印象派からセザンヌマチスピカソまでを客観的に絵画の歴史として冷静に(パリの喧騒から離れて)眺めることができたのだ。
二つ目の理由は、ロシアに古くから残る「イコン」(宗教画)や民衆絵画の存在だ。ウクライナの片田舎出身のマレーヴィッチは子供のころから、ロシア農民の厳しい暮らしの中で「イコン」が人々の生活と強く結びつき、時には支えてきたことを全身で知っていた。つまり、彼には絵画の持つ力を根拠なくも確信する理由があったのだ。
三つ目は、彼らがパリを中心とする西欧にコンプレックスを持っていたことだ。自分たちが中心からはずれていること、自分たちの源泉は中東アジアにあるのではないかという想い。それらが複雑に絡み合ってロシア独自の美術ムーブメントが生まれてきたのだ。
そして、忘れてはいけないのが「社会主義革命」だ。「革命」というテーマが、マレーヴィチの絵画に対する考えをより崇高な世界へと導いた。彼は抑圧された帝政からの脱却というロシア民衆の叫びを聞けば聞くほど、芸術的なアプローチが革命にとって重要な手段になると考えるようになった。(実際、彼は1905年の革命にバリケードを組んで参加した)彼の残した文章を読むと、「芸術」は「宗教」「政治」「科学」とまったく同じレイアーで語られており、その中でも繰り返し「芸術」の優位性が主張されている。
つまり、芸術を志すものとして革命の中で、芸術の価値を高めたいと望めば望むほど、「芸術」を「宗教」や「政治」「科学」に依存しないものとして独立した高度な存在にする必要があったのである。そしてそれが「無対象」であり、絵画として完全に社会から独立した世界感の構築であったのである。


実際、革命達成後、彼は教育者としてこの「これからの理想社会になくてはならない芸術」を学問として確立することに人生をささげる。教育者として多くの生徒を指導し、ユートピアである社会主義国家の中に新たな無対象の建築物をつくることに情熱を傾ける。絵画の世界で完成してしまっている世界感を建築にまで広げるのである。
しかし、時代は無常にもスターリンの恐怖政治へと向かい、「スプレマチズム」などの斬新な考え方は次第に歴史の隅に追いやられていくのである。


1927年、49歳になった彼は生まれてはじめて外国旅行をする。(このときまでロシアから外に出ていないことが驚きだ)このとき、有名なドイツの教育機関バウハウスに立ち寄った。そしてそのおかげでバウハウスからマレーヴィチの教育資料が出版されることになる。
これを読むと、彼がどれだけ徹底して絵画を論理的に捉えていたか、芸術を感覚的なものではなく科学的に、絵画を要素として分解し制作プロセスをシステムとして捉えるために工夫をしているかがわかる。

この外国旅行のときに、マレーヴィチは自分の作品や資料を友人に預けている。いつか全世界で彼の作品を公開したいという思惑なのか、作品をロシアに持ち帰ると没収、破棄されてしまうのではないかという危機感からなのか、理由は定かでない。

しかし、帰国後もロシアでの「スプレマチズム」の啓蒙をあきらめなかった。反政府分子的な扱いをうけながらも、ロシア国内で個展が開けることになると、彼は預けてたため、欠けている作品群をもう一度書き直す。(なので彼の作品は年代がよくわからなくなったものや、レプリカが存在する)同じ絵画を記憶や資料をもとに描き直す。こんなことをする作家がいるだろうか?彼が自分の制作暦とスプレマチズム的な展開を極めて論理的に捉えていたことがわかる。

ロシア出身の抽象画家カンディンスキーは、スピリチュアルな世界感を「音楽を聞かせるように見せる」といった斬新なアプローチで大きな評価を得た。同じくシャガールは幻想的なタッチでロシア農民の生活を描き多くのファンを獲得した。この同時代の二人に比べて、世界ではマレーヴィチ知名度は低い。けれども、マーレヴィチの絵画に対する気高さや崇高さはこの二人を圧倒する。凍えるロシアの荒土でひとり背筋を伸ばし、絵筆を動かす神々しい画家の姿が浮かんでくるのだ。


こんな「無対象性」に人生を賭けたマレーヴィチは、1935年スターリン全盛の不遇のロシアで57歳の生涯を閉じる。そして最後に描いた作品がこの自画像だといわれている。最後の作品が彼がその絵画進化論の中で否定してきたルーベンスばりの古典的な絵画なのだ。
彼はスプレマチズムを捨てたのか。それとも絵画進化論はスプレマチズム的極論を経て、また対象の世界に戻ってきたのか。その謎は謎のままである。
けれどもこの絵の右下のサイン、そこにあるのは間違いなく「Black Square」そのものである。

@ankeiy




<参考図書>
零の形態--スプレマチズム芸術論集(水声社) マレーヴィチ 宇佐美多佳子訳
無対象の世界(バウハウス叢書)マレーヴィチ 五十殿利治訳
MALEVICH(美術出版)セルジュ・フォーシュロー 佐和瑛子訳
ロシア・アヴァンギャルドと20世紀の美的革命(未来社) ヴィーリ・ミリマノフ 桑野隆訳
マーレヴィチ考--「ロシア・アバンギャルド」からの解放に向けて(人文書院)大石雅彦
ロシア近現代史-ピョートル大帝から現代まで(ミネルヴァ書房)富士本和貴夫/松原広志
終末と革命のロシア・ルネサンス岩波現代文庫) 亀山郁夫