クールベ、その男危険につき。
「最高のチャンスだ」とクールベは思った。政府の美術監督ニューベルケル伯爵から開催が予定されている万国博覧会に絵画を出展しないかという打診があったのだ。「俺もこれで世界的な画家の仲間入りだ・・・」
1855年、叔父のナポレオン神話を巧みに利用し、皇帝の座についたルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)はフランスの力を内外に示すため、第1回パリ万博を計画していた。その中で芸術の都パリを象徴する画家の作品を展示することは自然の流れだった。選ばれた画家は3名いた。新古典派の理想を追求したドミニク・アングル、ロマン派の巨匠、ドラクロワ、そして、写実的な絵画で次第に頭角を現していたギュスターヴ・クールベ、その人であった。
クールベは「私は天使を描けない。なぜなら見たことがないから」という有名な言葉を残している。レアリスム、つまり写実主義を追求した画家だ。けれども20歳でパリに出てきてから8年間というものその絵はほとんど人目に触れることがなかった。なぜなら当時の画家はサロンと呼ばれる官制展覧会の審査に通らないと、作品を展示することすらできなかったからだ。クールベはサロンの審査を落ち続けた。そのころパリで最も評価されていた絵画は、荘厳であり、神聖であるルネサンス以降のいわゆる古典的な考え方で描かれたものだった。
そんなサロンの審査員はみな保守的で、クールベの描きたい世界はほとんど理解できなかった。
風向きが変わったのは、1848年に起こった2月革命だった。産業革命によって力をつけてきた民衆が再び革命を起こし、共和政を樹立。政治的な混乱でサロンが無審査になったのだ。クールベは素直に喜んだ。やっと自分の絵を大勢の人に見せることができるのだ。
それ以降、クールベが出品する絵画は常に話題をさらった。なぜなら彼の絵は、歴史画的なスケールで、目の前にある労働者や農民の生活を描くユニークなものだったからだ。その中でも最も論争を呼んだのは1850年に描いた「オルナンの埋葬」だ。この絵は縦3メートル、横6メートルを超える当時としてはありえない巨大なサイズで描かれていて、まずそれに驚かされる。さらに絵の設定が田舎の名もない市民の葬儀の一場面という当時としては考えられないものだった。今まで神話の世界の歴史画にしか触れてこなかった人々に大きな衝撃を与えたのだ。
この絵のタイトルは当初「オルナンのある埋葬に関する、人物で構成された歴史画」という重々しいものだった。あえて「歴史画」とつけているところに、「今までの歴史画を破壊する、これが本当に描くべきものだ」というクールベの挑戦が見てとれる。この絵はドイツでも展示され大きな話題をさらった。「同時代の現実を自分の目で見たとおりに表現する」というレアリスムが次第に人々に受け入れられていくことで、クールベは自信を深めていった。
しかし、これでクールベの成功が約束されたわけではない。権力を拡大するナポレオン3世の第二帝政は次第に保守的な傾向になり、クールベのような革新的な絵画が煙たがられるようになっていた。実際、友人で彼の作品の支持者でもあった哲学者のプルードンをはじめ多くの知識人が、政治犯として投獄や追放されている。
けれどもクールベはピュアに絵画の持つ力を信じていた。真実を描けばそれは必ず人々の心を動かし政治をも変えると確信していた。クールベのそうした自信に共感する人々も現れた。その中の一人に銀行家で富豪のパトロン、アルフレッド・ブリュイヤスがいた。ルイ・ナポレオンの腹違いの弟、モルニー伯爵も顧客に加え政治的なコネも持ち始めた。
そしてついにフランスを代表する画家として、万博に出品できるというチャンスが巡ってきたのだ。ところが、美術監督のニューベルケル伯爵はこのときクールベの絵を展示することに不安を感じていた。彼の不安はクールベが過激な絵を描き、ナポレオン3世の逆鱗にふれないかというものだった。実際、皇帝は歴史画が好きでクールベの絵を嫌っていた。ニューベルケル伯爵は事前のスケッチの提出を依頼するが、クールベは応じなかった。
1855年、クールベは万博に出展するための作品を描いた。それが「画家のアトリエ」だ。この絵は、クールベの最高傑作といわれている。この絵もまた「オルナンの埋葬」と同様に縦3メートル、横6メートにも及ぶ大作だ。そしてサイズよりも重要なことはこの絵にこめられたスキャンダラスな隠喩だ。この絵の中央にいる画家は、もちろんクールベ自身だ。そして画家が見つめるその先にいる人々は彼が今まで描いてきた同時代を生きる人々、画家は背後にいる裸婦には目もくれず一心不乱にリアルな風景画を描いている。画家の後ろにはクールベの支援者たちが居並ぶ。クールベはこの絵で真実を描くことの重要性を伝えることを自分の画家としての人生を歴史スケールとして扱うことでやってのけたのだ。実際、クールベはこの絵の制作中に友人に宛てた手紙の中で「この絵には画家人生7年間が凝縮されている」と書いている。36歳、画家として油の乗ったクールベ、渾身の作だ。
ところが、この「画家のアトリエ」と「オルナンの埋葬」は、万博への展示を却下されてしまう。
クールベは諦めなかった。世界中から集まる人々に自分の絵を見せる唯一の機会を逃すわけにはいかなった。政府に交渉し、ブリュイヤスに資金援助を頼み、ついには万博会場の向かいに、自分の絵を展示するパビリオンを作ってしまったのだ。そして「ギュスターヴ・クールベ作品展 入場料1フラン」という看板を立ちあげた。
このクールベの展覧会は世界で最初の個展だといわれている。
クールベの仕事が、絵画が歴史に残った瞬間だった。
クールベは決して利巧なビジネスマンではない。なぜならばその後、彼の芸術活動そのものが政治に利用され、政治犯として不遇のままパリを去ることになるからだ。1977年、58歳で異国スイスでその生涯を閉じる。
「私は誰にも属さない。クールベ主義だ」クールベの言葉だ。自分の絵に自信に満ち溢れる自分を登場させてしまう。そんなところが傲慢で、わがままな印象を与える。けれども、逆にそこまで全人格をコミットする彼の芸術に対する純粋さや素直さはその絵とともに感動的でさえある。戦火に包まれる1972年パリ・コミューンの際に芸術作品を守るため先頭に立ったのもクールベだった。
1882年、パリでクールベの大々的な個展が開かれた。様々な証言からクールベが無罪であることが証明され、汚名も返上された。クールベの名誉回復に動いたのもやはり芸術を愛する画家仲間だった。
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1855年の展覧会の作品リストの冒頭には「レアリスム宣言」が記されていた。
「己の評価にしたがい、己の時代の風俗、思想、外観を翻訳できるようになること、単に画家でなく人間になること、一言で言えば生きた芸術をつくれるようになること、それが私の目標である。」
クールベがこじあけた新しい絵画の世界は、その後、印象派へとつながり20世紀のアバンギャルドにその精神は脈々と流れている。
既成の価値観を壊し、観衆を見方につけ、時代を変えていくというこの戦略は、現代で言うならスティーブジョブスのマーケティング戦略に通じるかもしれない。
そうクールベは優れた芸術家であり、最高の起業家でもあったのだ。
@ankeiy
<参考書籍>
クールベ ジェームズ・H・ルービン(岩波書店)
幻想とレアリスム 石谷治寛 (人文書院)
印象派で「近代」を読む 中野京子(NHK出版新書)
名画の言い分 木村泰司 (集英社)