不合理なものと生きている感じについて
いやー、お久しぶりです。奥さん。もう秋ですね。このブログ書かないでいると存在そのものを忘れてしまいそうなのでたまには更新しておきますね。
先日、「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」という美術展に行ってきたんですよ。ハードコアっていうとポルノを思い出しますよね。エッチ。(ぼくは奥さんのそんなところが好きなんですよ。)
この展覧会、ヤゲオ財団という台湾出身でビジネスで大成功した人のコレクションの展示なんですが、個人のコレクションを国立美術館が展示するというなかなか大胆なものでした。そう、他人の家のリビングを覗くって感じ。それと、この展覧会の面白いところは、お金と絵画の関係を全面に出しているところです。「奥さん、この絵は○億円もするんですぜ」っていう下世話な感じを偉い美術館がやるという。あえて絵の価値を金額で見せたりしてね。
展示されているものはほとんどコンテンポラリーと呼ばれるものですから、「なんじゃこりゃ」って思うものや、「おいおいこれが○億円もして、詐欺だろw」って思うものまで勢ぞろいです。真面目な顔をして鑑賞している人の顔を見るだけで、笑いがこみあげてくるような作品もあります。
こういう現代アートをコレクションしている人を見ると、いつも思うんですけどまあ何であんなものを自宅に飾ろうとか、所有しようと思うのかということです。ぼくにはまったくわかりませしぇーん。
と、先日まで思っていたのですが、最近、「まてよ」と思いました。芸術は高尚はものとか、社会に何かメッセージをしなければならないとか、作家の精神性を表現しなければならないとか、有名な作家じゃないとダメだとか、そんなこと考えているから「なんじゃこりゃ?」になるんですけど、単に「不気味なもの」とか「不快なもの」「よく理解できないもの」と思うだけでいいんじゃないかって気がしてきたからです。
意味わかんないですよね。そうなんです。これを文章で伝えるの結構難しいんです。リビングに綺麗な風景画がかざってあったとすると、「いい絵だなあ」「癒されるなあ」って感じでそれもありなんでしょうけど。
「なんかあれ不気味だなあ」とか「まったく理解できない」「心がわさわさする」とかそっちの方が生きているじゃんっていう感じですかね。
安全な家の中にいるよりジャングルの中で、いつ猛獣に襲われるかもしれないという状況の中にいたほうがアドレナリン全開で、人間として今を生きているって感じがするじゃないですか。(やったことないけどw)そう、そんな感じですね。まさに生きてる感じそのものを得るわけです。これがコンテンポラリーの価値なのかと。
生活や仕事も一緒ですよね。安全で安心なものばかり、合理性ばかりを求めていると、人間が本来もっている生きるエネルギーがどんどん失われていく。たまには不安なもの、不合理なものを自分の中に取り込むことで自分の中に眠る力を呼び起こすっていうんでしょうか。それは芸術作品でも人間そのものでも、仕事でもいいんでしょうけど、それを通じて生きているということを実感する。ノイズとの付き合い方がうまい人はぜったいにパワフルだって思うんですよね。
意味不明なものが、怖いものが大切だったりするんですよ。奥さん。
だから奥さんには僕が必要なんですねw
@ankeiy