意味と消費とブランドについて

みなさん、お元気でしょうか?愛に燃えた暑い熱い夏もいよいよ終わりですね。寂しいですね。
ぼくは次の夏にそなえてしばらく山ごもりでもしようかと思っています。

そんなぼくの琴線に触れるような出来事が本日ありました。それは、コラムニストの木村和久さんが、バブルの時代を懐かしんで「今の若者は外車とティファニーの良さを知らなくてかわいそうだ」という記事を書いたら、それをジャーナリストの佐々木俊尚さんが「ネタ?言葉も出ないほどのおぞましい記事……。」とツイッターで斬って捨てたという事件ですw。

ぼくは1964年生まれ。バブルと現世wのちょうどはざまに社会人になっています。だからバブルそのものの恩恵はほとんど受けていないんですが、まだ余韻が少し残っていました。当時銀座で働いていたんですが、銀座通りではハゲおやじたちが綺麗なおねーさまをつれて歩いていたし、みゆき通りや柳通りも高級外車のショールームのようでした。なので、木村和久さんがバブル消費の時代を懐かしむ気持ちよくわかります。

一方、ぼくが社会人になってから日本は失われた20年にまっしぐらです。なので景気が良いなんて感じたことぼくの仕事人生でほとんどありません。もし、インターネットが登場しなければ、
ぼくの生きた時代は経済右肩下がりだけの寂しい時代になっていたかもしれません。

資本主義経済が成熟することでグローバル化が進み、やがてベルリンの壁が崩れ、理想が現実に飲み込まれます。資本主義の弊害である格差社会が広がる一方で、ネットの普及はマスコミを核に作りあげられた情報権力社会が崩壊に導き、社会のフラット化が進みます。そんな中で、ぼくたちは「ないものを欲しがる」実用消費からマスコミによって作られた物語を中心にしたブランド消費へ、そしてバブルの崩壊を経てナショナルブランドが行き詰まり、ソーシャルメディアの登場で共感消費の時代へと向かっていくのです。そんな時代感に立つと「今の若者は外車とティファニーの良さを知らなくてかわいそうだ」という発言に「ネタ?」と応える佐々木さんの気持ちはふんとによくわかります。

けれども、ぼくは最近ときどき考えます。「ブランド消費って本当に終わったんだろうか?」って。確かに、いまどきヴィトンのバッグを自慢げに持たれるとちょっと引きます。ピカピカのフェラーリを乗っている人を見ても決してかっこよく見えません。逆に「何やっているのこの人たち?大丈夫?」とまで思ってしまいます。ぼくらの世代から見たら明らかにぼくらがブランドだと思っていたものは崩壊しています。これからどんなにメーカーが素晴らしい、新しい物語を発信してもあの輝かしいブランドの時代が戻ってくることはないでしょう。けれども、一方でブランド消費そのものは死んでいないという思いも強いのです。ネットの普及はブランドを作り上げる環境をさらに強化しているともいえます。時代は新しいブランドをもくもくと生み出し、消費者はそれを記号としてむさぼっているその構図自体は変わらないのです。それは共感やエコロジーという別の切り口で語られているにすぎず、常にブランド化され消費されていくのです。

今、バブルのころにように、「オープンカーに乗って海辺を走り、クリスマスに都心の高級ホテルに泊まることがかっこいいね」という物語を提示しても、ブランドは立ち上がりません。じゃあ、消費者はどんなものにブランドを感じるのか?それはそのプロダクトが内包する意味だと思います。ケータイがいい例だと思いますが、「コミュニケーションの距離をなくす」というすごい意味を持っているということです。

そこでもう一度、木村さんの「今の若者は外車とティファニーの良さを知らなくてかわいそうだ」という文脈に戻りますが、このかわいそうととらえる部分を「バブルのころ自分たちがブランドに感じた物語を今は読めなくてかわいそうだ」と読めば、何言っているのこの人この時代に。今の若い人は全然別のこと、たとえばLINEでもっと楽しんでいるよ」ってことになると思います。

けれども、本文では外車=BMWってことになっていましたが、BMW(高性能なスポーツカー)に乗ることの「意味」をもう一度問い直す機会を失ってしまってかわいそうだという意味なら、確かにそうかもしれないとも思えます。人知を注ぎ込んで開発された高級車は、なぜ車でスポーツを楽しむのかというマッチョな意味を教えてくれるかもしれません。

Google先生に聞けばほとんどの答えは返ってきますが、その意味までは体感しないとなかなか伝わりません。ネットが普及すればするほど意味がうすぺらになるリスクもあります。これからは意味を見つける力や新しい意味を作り出す力が求められているんだと思います。松岡正剛さんの意味論が示唆するように、これからはその言葉の持つ意味、消費に置き換えるとそのプロダクトの意味、消費することの意味が問われる時代なんだと思います。

従来のプロダクトが追求していたブランドはどんなに物語を記号化しようとしても所詮、時代の
文脈に左右されるシンタックスレベルのものだったのに対して、これからのブランドはプロダクトの持つ真の意味、つまりセマンティックスなものへと再構築されているのではないかと思いながらぼくはしばらく山ごもりに入ります。

@ankeiy