アンリ・マティス、その復活のとき。

「やべー、これじゃ生活できないかもしれないなぁ。かみさん怒るだろうなぁ」1910年秋、41歳のマティスは果てしなく暗い気持ちでどんよりと曇ったパリの空を見つめていた。

こんなに落ち込んだことは人生で初めてだった。というのも画家としての新しいスタートを切ろうと考えて、ちょー気合を入れて作成した『Dance』と『Music』。この大作を自信満々で展覧会に出したら、こりゃまあひどい酷評につぐ酷評。アホの美術批評家は無視するとしても、こたえたのはピカソやブラックにまで「マチスのじーさん、やっちまったなあ」と陰口をたたかれていることだった。11歳年下のピカソはついこの前まで「マチス先輩、すごいっすね。僕にはかなわないですよ」なんて言っていたことを思い出すと、それだけではらわたが煮えくり返った。

極めつけはこの絵を発注したモスクワの繊維王シチューキンの態度だ。「マチス君、君は天才だ。私の家のダイニングに飾る絵をぜひ描いてくれ」って頼まれて描いたはずなのに、展覧会の悪評を聞きつけて「マティス君、君は天才すぎるのかもしれない。僕は君の絵を買うことができないかもしれない」なんて弱気なこと言ってきた。「ちきしょー、詐欺じゃねえか。お前が描いてくれっていうから描いたのに」マティスは1年あまりかけた大仕事の対価を得ることができないかもしれないという絶対絶命のピンチに陥っていたのだ。

マティスはなぜこんなことになってしまったのか考えた。まじめなマティスはいつでもどんなことでも論理的に反省した。彼がたどり着いた結論は「調子に乗りすぎてしまった」ということだった。
思い返せば1905年の展覧会で野獣派とか言われて批判されたことがはじまりだった。そのときは「シメシメこれで俺も有名になれる」くらいに思っていた。それに翌年『生きる喜び』を描いて美術収集家のスタイン家の目に留まり、「天才だ」なんて評価されて、自分でも天才じゃないかって思ってしまった。

スタイン家でピカソたちに会ったときも尊敬の眼差しを堪能することができた。ピカソに自分の絵と交換してくれって頼まれて応じたのもそんな理由からだった。もしかしたら敬愛するセザンヌを超えたかもしれないと思った。ドイツでブリュッケの連中の絵も見たが、自分の方が自然を的確に捉えていると思った。詩人のアポリネールマティス論を書いてくれた。画家仲間に「マティスさんは、知識もあるし絶対に先生のセンスがあるから絵画学校を開いた方がいい」なんて勧められて開講したら、あっという間に60人も生徒が集まって大繁盛だった。「俺ってビジネスのセンスもあるのかなあ」なんて思っていた。しかし、生活の安定とは裏腹に教えるってことは消耗した。「俺は先生になるために生まれてきたのか?画家になるために生まれてきたのか?」って考えるようになった。
そんなおりにスタイン家のリビングの一等賞の場所に飾られていた『生きる喜び』がはずされ、そこにピカソの『アビニヨンの娘たちが飾られた』っていう話を聞いた。マティスは悔しかった。「俺は何をやっているだ」と思った。

そんな時にシチューキンからオーダーがあった。ちょうど父親が亡くなったり精神的にもきつかったけど、「よし、いっちょやったる。もう一度画家として、あの若ハゲ・ピカソを超えてやる」その思いだけで夜も寝ないで『Dance』と『Music』描きあげた。

学校をやめることは当然、かみさんには反対された、直接文句を言われたわけじゃないけど、安定した収入を捨ててまた、不安定な画家の世界に戻るわけだから当然だった。子供も3人いるし、経済的に不安の中ではかみさんの気持ちは痛いほどわかった。けれども、いまやらないと「俺が俺じゃなくなる」とマティスは思った。

しかし、世の中そう甘くはなかった。ピカソとブラックが分析的キュビスムとかいうわけのわからないトレンドを作り出して、美術マーケットを席巻していた。マティスは「なんだあんな色のない世界。見る人を不安にさせるだけだ。つまらない。」と思っていた。
ところが、展覧会でふたを開けると、敗北はマティスの方だった。

マティスはとりあえずシチューキンに手紙を書いた。「頼みますよ。注文したんだからちゃんと買い取ってくださいよ。いずれ私の絵は評価されるようになりますよ。今はみんなが理解できないだけですよ。ゴッホだってそうだったでしょ」思いっきり虚勢を張った。

マティスの必死さが通じたのかシチューキンは『Dance』と『Music』を購入してくれた。けれども、マティスの傷心は深かった。自分の作風にも自信が持てなかったし、それまで信じていた画家友達やギャラリストたちに裏切られたことが何よりつらかった。ほとんど鬱状態だった。そして、スペインに旅に出ることにした。

ふと頭をよぎった「このままゴーギャンのように、家族を捨ててアルジェリアにでも逃げようか」しかし、慎重で論理的なマティスにとてもそんな勇気はなかった。

旅は効果的だった。スペインの明るい太陽の中で、少しずつ元気を取り戻してきた。シチューキンからは励ましの手紙も届くようになった。マティスは嬉しかった。「リスクの高い投資したのだから芸術家として大成させたい」という実業家の言葉だとしても、一人でも応援してくれる人がいることが今は必要だった。かみさんは「早く戻ってこないと別れる」という手紙ばかり送ってきた。調和を重んじるマティスは言い訳の手紙ばかりを送ってなんとかしのいだ。

アルハンブラ宮殿を訪れたとき、何か吹っ切れるものがあった。イスラム文化のあざやかな色や装飾品の持つ調和からマティスの描く方向が間違っていないことを確信した。

そしてパリに戻って一気に4枚の大作を仕上げた。それは「The Pink Studio」「The Painter's Family」「The Red Studio」「Still life with eggplants」だ。マティスどん底からふたたび自分独自の世界を再構築しはじめた。


1911年、シチューキンはマティスをモスクワの自宅に呼んだ。マティスの絵はもっとも良い場所に飾られていた。シチューキンはウオッカをあおりながら美術愛好家仲間を集めて、こういった「マティス君の絵の良さは、こうやって毎日見ることができる場所に飾らないとわからない」「なぜなら、マティスの絵はどんなに毎日見ても、新しい発見があり飽きることがないからだ」。「ワイルドだろう〜」とは言わなかったw。マティスは感激した。そしてシチューキンのこの言葉が、マティスのこれから画風をゆるぎないものとしていった。「自分と対象物がつながる空間を生み出す」「色彩生かす」そして「調和」を描く。

何年か後にピカソマティスの絵を評してこういった「私の絵から例えば赤い1点を奪ったとしても何も変わらない。それはピカソの絵だ。ところがマティスの絵から赤い1点を奪うとそれはマティスではなくなる。」

ある時、マティスがレストランを訪れた際に、客席から拍手が巻き起こった。彼はこういった。「みなさん、私をピカソと間違えていませんか?」

そして、マティスマティスになった。

参考文献「MATISS/フォルクマール・エッサース」(TASCHEN)
マティスを追いかけて/ジェームズモーガン」(アスペクト
「ART SINCE 1900」(Thames&Hudson)