子犬は生まれません

結論からいうと、子犬はこの世に生まれ出ることはなかった。出産は失敗してしまった。そればかりか母犬はいま生死を彷徨っている。交配から38日目の結果だった。

1月25日朝、いつものように散歩に出た。元気がない。このところ犬は食欲がない。軟便が続く。心配していた。けれども1週間前に子宮への着床の確認をしてから、つわりや妊娠のダルさが体調不良につながっているとたかをくくっていた。完全に油断をしていた。

しかし、この日の下痢はひどい。このままでは体がもたないと思った。すぐ動物病院に駆け込んだ。体重計に乗ると1週間で体重は1キロ落ちていた。超音波エコーで、子宮内部を見た。獣医は無言で機材の画面を見つめた。そこに生命の兆候らしきものを見つけたいとぼくも必死に覗いた。しかし、残念ながらそれは存在しなかった。受精卵は成長していない。

獣医は血液検査をした。白血球の値が通常の6倍近くを示している。貧血寸前だった。体の中で炎症が起きていることは一目瞭然だった。診断名は子宮蓄膿症。発見が遅れた。仮に子宮が破裂すると敗血症となり死に至る。臓器に細菌が入れば、不全を起こし致命的な結果になる。緊急手術による子宮の摘出しか選択肢がなかった。

その朝まで生まれる子犬を抱き上げることを妄想していた。事実をつきつけられた瞬間、目の前のビジュアルが色を失った。ショックだった。前日には息子が生まれてくる子の名前をひとつ考えたと教えてくれた。「ニコ」。いちばん笑顔がよさそうな子にこの名前をつけようといっていた。

子供を産ませる大変さを自分に言い聞かせていた。母犬のストレスをどうう排除するか。死産もあるかもしれない。難産もあるかもしれない。帝王切開もあるかもしれない。生まれた子供たちの糞尿の世話。しつけ。音、におい。子犬の横で何日も過ごさないといけない。たぶん眠れない。家がしっちゃかめっちゃかになることは間違いない。そんなことを考えていた矢先の残酷な現実だった。


子宮が切除されてまだ24時間もたっていない。いつもなら文章など書かない。なまなましい記憶は言葉にしたくない。けれども今回はこのまま記憶の抽斗にしまいこむ気がしなかった。


ぼくはペットと暮らす生活を選んでいる。それはペットと暮らすことは短い人生の中でかけがいのないものだという価値観があるからだ。しかし、それが今回はゆらいだ。ペットなんて飼わない人にとってべつにどうってことない話かもしれない。


いままで飼い犬の死に2回、猫の死に1回立ち会ってきた。見送る側はいつも悲しい。そしてぼくは、いま飼っている犬についていつも考える。またこの犬も死ぬ。犬は人間の5倍のスピード生きている。だからこの犬も自分の前から、家族の前から確実にいなくなる。そのときの悲しみの大きさを想像する。それは大きな不安。だから、この犬の子供を作ろうと思った。そのいなくなる悲劇から少しでも逃れるために。この犬の血を残そうと考えた。

それがこの結果だ。

結局、自分の都合で犬に子供を産ませようとした。そんな人間の利己的な行為は必ず失敗する。藁。


ぼくは、安易なペットの避妊手術に反対の立場だ。人間にとっての様々なリスクを避けるために生き物の正常な部位をそぎ取ることに恐ろしさを覚える。でもぼくがしたことは、これよりひどいことだったかもしれない。


いまはただ母犬が元気になってくれることを祈る。犬の時間は人間の5倍ゆっくりと流れる。病院で点滴を受ける犬の1日は人間の5日に相当する。ぼくができることはその時間の長さを考えることだけだ。