「本当の言葉はどこにあるのか」について

「盗んだバイクで走り出す。行き先も解らぬまま。暗い夜の帳の中へ」名曲ですよね。尾崎豊の「15の夜」ですよ。この曲がラジオからながれてきたとき、ぼくはもう確か19だったと思いますけどね。かなりドキッとさせられたことを覚えていますよ。


浜田省吾も「終わりなき疾走の中」で、「15の時、通りのウィンドウに飾ってあったギターを見つけて、すべての夢が始まった」と歌っていますね。15歳ってのは何かが始まるんでしょうね。ぼくの子供ももうすぐ15歳でなんですけどね。パソコンの前に座ってばかりいますよ。親としては心配なんですけどね。彼にも何か始まるんでしょうか?


浜田省吾は「ギター」尾崎豊は「バイク」そしてうちの子供は「パソコン」。使う道具は時代とともに違っても、15歳の大人と子供の中間にいる青く複雑な気持ちは一緒なんでしょうね。ぼくはもう忘れてしまったかもしれませんが。


それでね。なぜこんなことを書いているかというと、ちょっと気になることがあったんですよ。「今の若者は尾崎豊に全く共感しないらしい【独りよがりで意味不明】【何に怒っているかわからない】」っていうニュースがあったんんですけどね。これ読んでちょっと待てよって思ったんですよ。ニュースは10代の代弁者でありヒーローであった尾崎の言葉が今の若者に通じなくなっている時代の変化と驚きを伝えたがっているんだけどね。そのまま読み飛ばすとね。「そうだね。今の時代、みんなSNSでつながっているし、ケータイもあるし、情報もあるし、さめているし、だから尾崎のような怒りや言葉は通じないんだね」なんて思ってね。
これ読んだおじさんたちも飲み屋で「時代が変わちまったねえ」なんていって一杯やるんですよねw。その状況はこのニュース作った人の勝ちですねw。


ぼくが気になったのは、この記事にあった大学教授の話や香山リカ先生の話がまことしやかに尾崎離れを証明するかのように挿入されている点なんですよ。ここに違和感を感じるんですよ。「大学生に聞いたら共感できる人が少なかった」っていうことなんですけどね。そもそも大学に行ってね。授業やゼミにまじめに出てね。そんなアンケート答える学生にね。もしかたら一流大学やお嬢さんお坊ちゃん大学かもしれせんけどね。そもそも尾崎の言葉ってのは届かないんじゃないかと思うんですよ。そういう視点でみるとね。ちょっと違うんじゃないかなとも思えちゃうんですよ。


この記事を受けてね。2chの住人は、「単なる中二病じゃねえか」とか「長渕とか矢沢なんかもおなじだよな」とかチャチャや突っ込み入れてね。これはまあこれで面白がれるんですけどね。レジャーみたいな別世界の話としましょうねw。


でね。こういうことが世の中にはたくさんあるんですよ。ぼくは仕事がらマーケティングについて考える機会が多いんですけどね。今流行のソーシャルゲームですね。これ知識層にはクソゲー呼ばわりされてね。「こんなくだらないゲームやっているなんて」って嘆かれたりしていますよね。たぶん、このブログを読むような人たちの周りの人もお金をかけてまでソーシャルゲームやっている人少ないんじゃないですかね。でもね。世の中には確実にニーズがあってこれにはまる人も大勢いるんですよね。(子供に使われてる分を除いてもね)そういう人のニーズって、なかなか知識層というか、クラス内カーストの上位層というか、そういうところにいる人には見えてこないんですよ。


でもね。世の中のメディアとかブログとかツイッターとか情報発信を仕切っている人たちってほとんどがこのクラス内カーストの上位層なんですよ。だからこの人たちが発言するとね。世の中そっちのほうに動くんだけどね。本当のことはそこにないことがたくさんあると思うんですよね。
もっと言うと、本当の言葉はみんなに‘ありがたがられる‘知識の上にはないかもしれませんね。


ぼくは少なくとも15の時のあのどうしようもない感情や言葉というのは、いつの時代も同じように心に漣をを立てると思っているんですよね。だからね。尾崎豊の歌を聞いて共感したり、衝き動かされる10代はこの日本にたくさんいると思いますよ。

また、そうであって欲しいと思っていますよ。

@ankeiy