美術作品は読むものであるという件について

中学生のとき、屋外写生に出かけたんですよ。ぼくは川べりの土手に腰を下ろして、秋深まる田園風景をまじめにスケッチしていたんですよ。そしたら同級生の中山顕治くんが、写生に飽きちゃって「石投げしようぜ」って誘うわけですよ。どこまで遠くに投げれるかってね。助走をつけて川の向こう岸に思いっきり投げるんですよ。そしたらですよ「ボーン」と大きな音が・・・。堤防に駐車してあった車のフロントガラスに命中したんですよ。まさにゲージュツが爆発した瞬間でした。後で校長室に呼ばれてこっぴどく怒られましたよ。人間はこんな苦い思い出を積み重ねて生きていくものなんですね。奥さん。


あのとき写生したぼくの絵はどこにいったんでしょうね。ちゃんと完成してましたかね?それとも、フロントガラスが割れて動揺して途中までしか描けていないですかね。もし、あのときの絵が見つかったら、その絵にはゲージュツ的価値はまったくないかもしれませんが(ないねw)、中学生の目に写った秋や中山顕治くんの困った顔やフロントガラスの割れる音や校長先生の怒りや、たくさんのコンテクストがつまっているわけですね。


なぜこんな話を書いたかっていうとね。先日、木村泰司さんという方の「名画の言い分」っていう本を読んだんですよ。彼の哲学は「絵って見るものじゃなくて、読むものだ」っていうこと、ギリシャから現代絵画までその作品が誕生してきた背景や意味を読み物として解説してくれるんですね。良書でした。芸術作品が持つコンテクストを理解することで作品の価値が変わるんですね。でも一方で絵を楽しむためには、たくさんの情報を知る努力が必要だということもわかるので、少し気が重くもなりますかw。「わー!きれい」とか「ぼくの感性に合うな」で済ませたい気持ちもありますからね。


先日、日曜美術館で江戸時代の絵描き「酒井抱一」を紹介していました。この酒井さんは100年前に亡くなっている尾形光琳の大ファンで、その熱意が通じたのか、尾形光琳の「風神雷神図」(いまは国宝ですよ!)の屏風の裏に絵を描く機会に恵まれるんですよ。それで彼が何を描いたかというと、片面に夏の草、そしてもう片面に秋の草。この絵を何の情報もなく見るとね。「江戸の画家が庭先の身近な自然を上手に描いたのか」で終わっちゃうんだけどね。この絵はちゃんと尾形光琳へのオマージュになっていて、夏の雷神の雨を地上で夏の草が受け止めて、秋の風神(台風)の風を秋の草が受け止めているんですね。それも神々の力を地上の自然が脈々と生きる力として受け取る。そいうコンテクストに気づくとこの絵の持つ意味が「パッ」と変わっちゃうんだよね。神と地上の空間が立体的になる瞬間だよね。


たとえば来月、予定されているプラド美術館からやってくるゴヤ展もね。すごく楽しみなんですよ。というのもね。ゴヤが宮廷画家として芸術(自己表現)と権力の間でどれだけ苦しみそれをうまく?消化してきたかという本をこのまえ読んだからですよ。だからね。ぼく的にはゴヤって今で言う広告代理店のクリエイターに近い存在じゃないかって気がするんですよね。クライアントの要望と表現をどんなアイディアで折り合いをつけるかw。そういう眼でのぞいてみたいですよね。


村上隆のエロや会田誠の戦争やヤノベケンジのストレートな明るさも、好き嫌いじゃななくてそこに存在する物語としてとらえると、まったく別ものですよね。もちろん、彼らの作品に対しての海外の反応。違う国で違う文化で育った人たちがそのコンテクストから感じるものがまったく違うであろうことを考察することもひとつの楽しみですね。


芸術の秋ですからね。ぼくも仕事について考えるんですよね。仕事はね。儲かったとか、売り上げが上がったとか。そういうエクセル的な価値で評価されることが多いけどね。もし、読み物として読んだら、その仕事はまったく違う価値を持つことができるのだろうかってね。
ぼくの勝手な希望だけれども、ぼくたちが携わる仕事は後で読んでもらったときにね。違う価値を見出してもらえるストーリを持ちたいですね。