なぜ、210キロを走るのか。

「180キロくらいならなんとかなるだろう」と思っていたんだけど、正確に距離を出してみたら、210キロあって「ひょえー!」という今回の無謀とも思える長距離ランを「なぜ、ぼくたちは走ることになったのか」という話をしたいと思います。


今回のチャレンジをするぼくを含めた3人は、2009年4月にも長距離ランを実行しました。そのときは、用賀を出発して、埼玉県、群馬県を経由して長野県に入るというルートで、総距離170キロ弱、3日間の走りでした。ところがこの前回のトライは「軍曹と呼ばれる男」Hが途中で疲労から脛の炎症が悪化して、100キロ地点でランニングを断念、カインズホームでママチャリを購入し、残りの70キロを走らざるをえなかったというハプニングがありました。


チャレンジから2年が過ぎたころ、Hがつぶやきました「オレの挑戦は終わっていないぜ」。最初は何を言っているのかわけがわからなかったのですが、どうやら途中から自転車に乗らなければならかったことが、彼の心に傷を残してたようです。もういちど挑戦して完走したいというのです。


「おいおい、あんな苦しいこともうやめようぜ」とぼくは言いました。当然です。


さらに加えると、もう一度同じコースを走るなんて、ただでさえ修行僧のようにたんたんと走らないといけないのに景色が一緒じゃあつまらないと思っていたのでした。一時は千葉経由で福島方面へ走ることを考えていたこともあったのですが、今回の原発事故でそれも難しくなり、神奈川経由で静岡方面も頭にあったのですが、国道135号線のランニングは狭く危険きわまりないように思え難しいだろうと考えていました。当然です。


ところがです。そのときふと川越街道とともに、もうひとつ長野県に入るルート甲州街道のことが頭にうかんでしまったのです。と同時に「甲州街道はもう秋なのさ〜♪」という忌野清志郎のメロディが流れ、「おお、なんか秋の山梨ルートはいいかもしれない」などと不埒なことを考えてしまったのでした。


「じゃあ、甲州街道でいこう」という軽いひとことがはじまりでした。


しかし、今回のチャレンジはかなり無謀なことだと思っています。その理由は次のとおりです。

1.夏の暑さでほとんど練習していない。
2.距離が前回よりも40キロも多い。
3.最高標高地点が海抜1500メートルもある。
4.車ですら通ったことがない(いつも高速)
5.前回より2歳年寄りになった

そこでまずは、この長距離ランがいかに大変かということを「前回のあらすじ」を通してお伝えしておきたいと思います。ぼくは寛平ちゃんを尊敬していますが、その理由はこの体験を通して得たものです。


<前回のあらすじ>
2009年4月晴れた日、午前10時ごろ用賀を元気よく出発したぼくらは武蔵野をぬけて、埼玉に入りました。30キロあたりまで快適に走れたのですが、気温がぐんぐん上昇しぼくたちの体力を奪っていきました。午後4時くらいになると、「酒豪と呼ばれる男」Sが次第に一緒に走れなくなります。50キロを過ぎたあたりになると、既にあたりが暗くなるのですが、Sが闇夜と同化するくらい土気色になり、60キロをすぎると足元もふらつくような状態になりました。コンビニでSの遅れを待ったのですが、30分ほど遅れて到着したSは既に目も虚ろな状態でした。その日はSを気遣いながら、なんとか70キロ弱を走り、嵐山の健康ランドに宿をとりました。

そのときの3人はまったく健康ではありません。酒豪のはずのSがなんと、生ビールを一杯しか飲めず、もう寝ると言い出す始末です。お風呂に入るとテーピングだらけのHは自分よりはるかに健康そうな老人に「何かの大会ですか?」などと質問され、「がまんくらべです」などと苦笑いしています。何種類か風呂があり、そのひとつに鉱泉がありました。ためしに入った瞬間、股間にものすごい痛みがはしり、あわてて飛び出すという事態です。ナトリウムが恐ろしいほどの痛みを連れて○金に迫ってくるのです。


翌朝、ベッドから起きようと思うと、なんと体が硬直していて立ち上がれません。ひざも相当いたいです。当然です。ぼくらはこのときまで生まれてから一度も70キロなどという距離を走ったことはなかったのです。ロボットのような体を無理やり動かしながら、なんとか健康ランドを発ちました。

しかし、人間の体とは不思議なものです。次第に体が温まると、今までぎこちなかった筋肉もちゃんと命令を聞いてくれるようになり、もとの自分に戻っていくのです。前日にほとんど死んでいたSも復活。前日の走りで得た筋肉を既に自分のものにしていました。強靭な肉体の持ち主です。ところがです。15キロを過ぎたあたりから、Sの足に異変が起きます。脛の部分が赤く腫れ上がってきたのです。そして20キロを過ぎるとほとんど走れなくなってしまいました。
これには困りました。そこで自転車を購入しようということになったのですが、自転車屋がありません。ぼくは国道沿いにある「ベーシア」に走って自転車を探したのですが、残念ながら自転車がありません。そこで得た情報によると5キロくらい先にカインズホームがあり、そこで自転車が買えるとのことでした。そこで仕方がないので、ぼくが先に走り、自転車を買いそれを後から歩いてきたHがピックアップするという作戦に切り替えました。後で聞いた話ですが、Hはカインズにたどり着くまで、道を間違えたり、知らないおばさんの車に乗せてもらったり、それはそれで冒険があったようです。


そのあともトラブルが続きます。まず最大の敵は低気圧の接近です。4月下旬とはいえ群馬の気温はぐんぐん下がり10度近くになります。なんとか目的地の富岡に入ったときはとっぷりと日が暮れていました。SとHの到着を待つため、どこかで暖をとろうと居酒屋とかレストランを探したのですが、なんとこの街、ないんです。お店が。世界遺産候補地、大丈夫かと思いながら、寒さに震えながら、仕方がないのでレンタルビデオ屋に入って、おたくっぽいお兄さんたちと一緒にコミックなんかを立ち読みしていました。
そして待つこと30分、ようやくSとHが合流して、なんとか見つけた居酒屋で食事をしました。予約してあった宿の場所がわからないので、タクシーを呼んでなんとかその日を終えたのでした。
しかし、この日の宿の寂れ具合は最高レベルで、軋む廊下を隔ててふすま越しにん部屋があり、きっと逃亡犯のひとりやふたり泊まっていそうに思えるところでした。極めつけは、風呂。宿主が「風呂は入れますよ」っていうんで、完全に普通の家の内風呂じゃないかという共同風呂に入ったら、なんと10センチくらいしかお湯がないんです。寒い。しかたがないのでお湯がたまるのを寒さをこらえて待っているのでした。心も体もまずしくなる夜でした。脱衣所ではモー娘のポスターが貼られ、しみのついた加護ちゃんが、色いっぽい目でこっちを見ていました。おにゃんこクラブじゃなくてよかったと少しだけ思ってしまいました。


次の日、起きると土砂降りです。コンビニで買った菓子パンを流し込み、雨合羽を着込んで出発です。この日は、いよいよ残り50キロ、標高1100メートルの峠越えが待っています。この雨合羽を着て走るってのはすごくやっかいです。かいた汗が服にたまり、疲れて走る速度を落とすと、今度はその汗が体から熱を奪うのです。坂道を淡々と登ります。はじめは平坦な道を快適に自転車をこいでいたSも次第に立ちこぎになる機会が増えてきます。自転車のほうが走るより大変なんじゃないかと思える展開です。しかしSは自転車を降りません。「いいかげんに歩いたら?」と聞くと「いえ、これが自分のルールですから」と降りません。さすが軍曹です。
雨合羽を着て走っていると、発見がありました。それは怪しいのです。考えると、いままでの人生の中で上下雨合羽を着て走っているという人を見たことがありません。道路わきの家々で飼われている番犬が、容赦なくほえます。なぜなら怪しいからです。するとそれに呼応するかのごとく周囲の犬どもが鳴きだすのです。途中、パトカーに抜かれましたが、たぶん誰かが通報したんじゃないかと思います。怪しい人たちが走っているということで。
ずぶぬれになり、寒さも限界に達したぼくたちはなんとか、峠の入り口の茶屋に駆け込みます。ここのおばさんがいい人で助かりました。ストーブをつけてくれて服や靴を乾かすことができたし、もつ煮込みが体を芯から暖めてくれました。それ以来、ぼくにとっての群馬はこんにゃくでも福田赳夫でもなくもつ煮込みになりました。当然です。


いよいよ1000メートルを越える峠に差しかかります。気温はどんどん下がりたぶん体感温度は5度を切っていたんじゃないでしょうか。手足がかじかんでだんだん感覚がなくなります。体が限界だから走るスピードを落とすと、容赦なく寒さが襲う。その繰り返しです。さらにトンネルがいくつもあるのですが、暗いし時々通る大型トラックときたら、まさに走る凶器です。さらに恐ろしいことにタイヤのホイルカバーやら車の部品ぽいものが道路にたくさん落ちています。もしそんなものがトンネルの中で飛んできたら一撃で終わりです。はやくトンネルを脱出しなければならないただそんな思いで走るわけです。
ようやく峠を越えて下り坂になったあたりではたと考えます。Sはあんな坂とトンネルを自転車で大丈夫だろうか。事故っていないかと心配なります。峠のふもとで寒さをこらえて待ちながら、自転車が見えたときは安心しました。なんとあの坂をすべて自転車を降りずに走りきったというのです。さすが軍曹です。


こうしてぼろぼろになった体を引きずりながら、目的の地、長野県に入ったわけです。到着したときはちょっとした充実感がありました。次の日、新幹線に乗ったら1時間で東京についたときのむなしさという余韻を残して。

ここで物語は終わるはずでした。しかしです。今回「甲州街道で行こう」の一言でまた続きが始まってしまったのです。人生は終わりのない旅、まさにそういうことなのでしょうか。


ということで、今回の長距離ランの予定を記します。

総ルート 210キロ

22日  二子玉川駅前〜相模湖  50キロ
23日  相模湖〜石和      65キロ
24日  石和〜清里       50キロ
25日  清里〜佐久       45キロ 


いやー、はっきり言って2日目に65キロ走る自信はありません。しかも峠付です。
さらに3日目に1500メートルを駆け上がる自信などまったくありません。酸素はあるのでしょうか。
しかも、現在、沖縄に台風が居座っているし、秋雨前線はあるし、山のコンディションは最悪かもしれません。

いそうのこと、台風が直撃して中止になったほうがいいのではないかととも思います。
というわけでかなり無謀なプランではありますが、とりあえず走ってみます。

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追記:その後調べると、新笹子トンネルに歩道はなく、旧道をいくしかないことが判明。旧道はさらに6キロほど長く、当然坂道(あぜん!)2日目は都合71キロの行程になりました(涙)