フェアなおりこうさんと不公平なバカの関係

ぼくの通うジムに新しいツイストマシンが入ったんですよ。それで調子に乗って「くいくい」ひねっていたら、左側の腹筋がつってしまいましたよ(涙)「そんなものひねらいなで、頭をひねれ」って。ハイ、わかっていますよ。奥さん。


先日、ちょっと気になる話がありました。被災地でね。500人の避難所に300枚の毛布が支援物資として届けられたんですよ。そしたら数が足りないので配布せず、みんな寒い一夜を過ごしたという話なんですよ。


「二人で1枚使えばいいじゃないか」とか。「家族に○まいと配布すればいいじゃないか」とか。いろんな配布の方法があると思うんですけど、それをやらなかったらしいんですよ。何か他に事情があったのかもしれないですけどね。サンデル教授もびっくりですよ。


で、この話を聞いて、ああよくある話だなあと思いましたよ。公平さを考えるあまり、最大利便を得られないで不便の中でがまんする話。


何年か前に、ぼくは子供の学校参観にいってすごく違和感を持ちましたよ。先生が子供たちを「苗字にさん付け」で呼んでいるんですね。呼び捨てとかあだ名とかそういうのは一切なし。何でそんなことしているかというと、「公平さ」を担保するためらしいんですよ。生徒との距離感を同じにしているんですね。でもね。これによって「1人1人の個性」とか「クラス全体の活力」とか公平さより大切なものをたくさん犠牲にしている感じがしましたよ。ぼくには変としか思えなかったですよ。



制度を作り出す側はいつも「公平さ」を考えるじゃないですか。そしていつも考えすぎて損もする。「公平さ」は大切だと思いますけどね。しょせん受益者側のとらえ方でしかないっていう一面もあるでしょ。どんなことをやっても不平不満は生まれるものですよね。


そこで、ぼくはぼくのバカな頭をひねってみましたよ。マルクスがどうしたとか功利主義がどうだとかそういう難しい話じゃなくてね。制度の良し悪しはともかく「どうすれば受益者側に最大の公平さを感じてもらえるか?」


そしたらね。答えはバカになることじゃなかって結論に至ったんですよ。あっ言い過ぎました。バカ正直になることじゃないかと思いましたよ。はじめから公平なふりをするんじゃなくて、不公平なこともあること、そしてそこから生まれるメリットも含めてきちんと正直に説明するってことじゃないですかね。


この正直さが伝われば、不公平感を感じる人もね。「しかたないかなあ」という寛容が生まれると思うんですよね。美しい寛容がね。


で、この前の菅さんの記者会見すごく気なりました。ぼくにはまったく正直に説明しているように見えませんでした。だってマイナスな話がまったくないんだもん。極めつけは「私は隠し事など一切しておりません」なんて言う。まったくもってあやしいじゃないですか(笑)
こういうリーダーが示す方針には、常に不公平管、じゃなかった不公平感が漂っちゃいませんかね。


さて、こんな適当なこと書いているぼくもね。バカなんですけどね。なかなかバカ正直にはなれなくて苦労しているんですよ。これでも。